気が気でない

えーと、ここでは辞書的な意味でなくて、西野流的な意味でこの言葉を使っています。

以前は、西野流では「気」という概念が前面に出ていました。「気」を体得したくて西野塾の門を叩いた人がほとんどだったと思います。ところが、いつの間にか「気」という言葉は使われなくなった。先生のご著書にも、あるときから「気」という言葉が消えたのはご存知の通り。

何故?・・・これは私の考えですが、「気」という言葉が持っているオカルト的な響きを先生が嫌ったのではないかな? 勿論、西野流の気は「生命エネルギー」のことだから、全然オカルト的な意味合いは無いのだけれど、言葉というのはある意味怖い。

まあ、オカルト云々は抜きにしても、気という言葉はいろんなところでいろんな意味で使われていると思う。整理すると、こんな感じかな?

これらは全て「気」という1つの言葉で表されている場合があるので始末が悪い。西野流の場合は、全て「生命エネルギー」で換言可能なのだけれど。例えば、「丹田に気を送る」⇒「丹田に生命エネルギーを送る」とか、「気が強い」⇒「生命エネルギーが強い」といった具合。

勿論、他流や他の道の「気」の定義が間違っていて西野流が正しいというようなことを言うつもりは毛頭無くて、西野流の気は生命エネルギーであって、それ以上でもそれ以下でもそれ以外でもないということです。

ところが、この図を見て分かるとおり、3つの「気」には重なり合っている部分も多少あるんではないだろうか? その辺りが誤解の元となったり、あるいはそれこそが極意だったりすることもあるから、始末が悪いというか、だからこそ面白いというか、、、まあ結局のところ神様にしか分からないのかも。

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